敦煌の歴史 10 五胡十六国時代
3世紀初から6世紀末までの江南(長江下流域南部、江蘇・安徽・浙江省など)には、建業(現在の南京)に都を移した晋(東晋)をはじめとして漢人王朝が続きます(呉・東晋・宋・斉・梁・陳=六朝時代)。温和な気候風土に育まれ、詩・書・絵画などの風雅な貴族文化が花開きます。それらは北方の戦乱を嫌って移住してきた多くの貴族や豪族によって形成されました。中国北方は漢人や異民族が入り乱れて戦に明け暮れる、五胡十六国と呼ばれる大混乱の時代です。
晋の領土をめぐって五胡と漢族の国が興っては消える混迷の五胡十六国時代(~439)へと入ります。
五胡 |
十六国 |
建国者 |
年代 |
支配地 |
|
匈奴 |
前趙 |
劉曜 |
304~329 |
陝西 |
後趙に滅ぼされる |
|
北涼 |
沮渠蒙遜 |
397~439 |
甘粛北部 |
北魏に滅ぼされる |
|
夏 |
赫連勃勃 |
407~431 |
陝西甘粛内蒙 |
北魏に滅ぼされる |
羯 |
後趙(石趙) |
石勒 |
319~351 |
河北山西 |
内乱により滅ぶ |
鮮卑 |
前燕 |
慕容皝 |
337~370 |
南満州 |
前秦に滅ぼされる |
|
後燕 |
慕容垂 |
384~409 |
華北 |
北燕に滅ぼされる |
|
西秦 |
乞伏国仁 |
385~431 |
甘粛 |
夏に滅ぼされる |
|
南涼 |
禿髪烏孤 |
397~414 |
青海甘粛 |
西秦に滅ぼされる |
|
南燕 |
慕容徳 |
398~410 |
河南 |
東晋に滅ぼされる |
氐 |
成(後蜀) |
李特 |
306~347 |
四川陝西 |
東晋に滅ぼされる |
|
前秦 |
符健 |
351~394 |
陝西 |
東晋に滅ぼされる |
|
後涼 |
呂光 |
386~403 |
甘粛 |
後秦に滅ぼされる |
羌 |
後秦 |
姚萇 |
384~417 |
陝西 |
東晋に滅ぼされる |
漢 |
前涼 |
張軌 |
301~376 |
甘粛 |
前秦に滅ぼされる |
|
西涼 |
李暠 |
400~421 |
敦煌酒泉 |
北涼に滅ぼされる |
|
北燕 |
馮跋 |
409~436 |
河北 |
北魏に滅ぼされる |
このわずか135年の間に、敦煌の主は前涼、前秦、後涼、西涼、北涼とめまぐるしく変わります。
西晋末(301)に涼州(現在の武威)の刺史(地方官)となった張軌は、河西回廊にいた鮮卑族を平定します。シルクロード交易の利益に目をつけた張軌は、名目上は西晋の臣下でありながら事実上は独立して前涼国を建てます。
第4代張駿の時代が最盛期で、現在の蘭州からトルファンまでを支配して涼王を名乗ります(333)。そして9代張天錫が氐族の前秦(都は長安)に滅ぼされる(367)まで、敦煌は前涼国の西域経営の重要拠点として発展しました。
そしてこの前涼時代の忘れてはならない出来事が莫高窟の造営です。記録によると、西暦366年、楽僔(らくそん)という僧侶が鳴沙山の断崖に最初の石窟を掘ったのが莫高窟の起源だとされています。(詳しくは「
仏教史と莫高窟」をご覧ください。)
次に敦煌の主となった前秦では、3代皇帝符堅の時代が最盛期で一時は華北を統一します。西域経営にも積極的で内地から1万7千戸の農民を敦煌に移住させました。また将軍の呂光を派して亀茲(きじ・現在のクチャ)へと遠征させます。その目的は亀茲国の名僧・鳩摩羅什(くまらじゅう・クマラジーヴァ)を連れ帰るためでした。高名な僧侶の威光を借りて人心を掌握しようとする為政者は多く、このころは武力で僧侶を争奪することも多くありました。
呂光の軍は焉耆(えんぎ・現在のカラシャール)・亀茲を破り、鳩摩羅什を連れて凱旋の途につきます。しかしこの西域遠征のあいだに、本国では符堅が東晋を討とうとして大敗を喫し、さらには臣下の西燕にも攻めこまれてついに自害するという状況になっていたのです。主君を失った呂光は長安に戻ることをやめ、涼州を占領して後涼国を建てます(386)。
しかしその後涼国も長くは続きません。呂光の晩年には南北に分離し、それらはやがて北涼、南涼として独立します。そして鳩摩羅什を奪いにきた後秦によって後涼は滅ぼされます。
北涼が独立してまもなく敦煌太守が死ぬと、敦煌郡の県長であった李暠(りこう)は自ら敦煌太守に就任します。北涼の王・段業は新たな敦煌太守を任命して派遣しますが李暠はこれを拒否。王に背いて年号を定めて大将軍を名乗ります。
前漢時代に敦煌郡が置かれて以来、つねに各王朝の重要拠点として発展を続けた敦煌ですが、ついに敦煌を都とする独立王国・西涼が誕生しました(400)。
西暦400年、史上初の敦煌を都とした独立王国・西涼ですが、残念ながら僅か5年後の405年、李暠は都を酒泉に移します。しかし西涼国自体は漢人の伝統文化を守り、西域とも活発に交易をして発展していました。そのころ北涼では匈奴人の沮渠蒙遜(そきょもうそん)が王の段業を殺して王となり、北涼はしばしば西涼に侵攻します。しかし西涼2代目の李歆(りきん)は人望のない暴君でした。部下の進言にも耳を貸さず、北涼に強行遠征してあっさり捕らえられ処刑されます(420)。弟の李恂(りじゅん)がかろうじて敦煌に逃れて最後の抵抗をしますが、翌421年には追撃してきた北涼軍によって包囲されます。沮渠蒙遜は堤を決壊させて城内を水攻めにしたため敦煌の町は壊滅し、李恂の自害によって西涼国は消滅しました。敦煌を含む河西回廊全域は北涼の支配下に入ります。
かつて前秦に滅ぼされた鮮卑族拓跋氏の国・代は、符堅の前秦が滅んだ後に再び力を盛り返し、拓跋珪(たくばつけい)が386年に国名を北魏(正式な国名は魏だが三国時代の魏と区別するために北魏と呼んで区別する)として盛楽(現在の内モンゴル・ホリンゴール)に都して再興します。拓跋珪は次第に周辺国を征圧し、398年平城(現在の山西省・大同)に遷都して道武帝として即位します。その後も周辺国を破り、3代太武帝のときには沮渠氏の北涼を滅ぼして(439)ついに華北を統一します。これにより西晋末から始まった135年に及ぶ華北大混乱の時代、五胡十六国時代が終わります。
五胡十六国時代には、史書に残るだけでも大規模な戦闘が百を越え、さらに政権闘争、クーデター、内紛、民族間の争い、農民一揆、宗教結社の反乱などなど、争いのない日が無いというほどの殺伐とした世の中でした。この時代に生まれた人々にとっては毎日が生死の境目だったかもしれません。3000万人を越えるといわれる戦死者が出、戦乱を避けようと人々は東へ西へ、北へ南へと逃げ回ります。北方からは大量の異民族が流入してきます。この時代は多くの民族や文化が衝突し、溶かされ掻き混ぜられ淘汰され融合します。かつての漢対匈奴のような単純な図式では表しきれないほどの複雑な時代へと変化しました。しかし、幸か不幸かこのことは後の隋唐時代の大繁栄への伏線ともなったのです。
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