仏教史と莫高窟 05 莫高窟の起源


唐代に記された『李懐譲重修莫高窟仏龕碑』や『莫高窟記』によると、「前秦の建元2年(西暦366年)に、修行の場を求めて敦煌にやってきた楽僔(らくそん)という僧侶が、あるとき三危山が金色に光り輝き鳴沙山の断崖を照らすのを見て、霊験あらたかなこの場所に一つの石窟を開いた。またそれに続いて法良という僧侶がその傍に一窟を開いた。これが莫高窟創建の起源である。」ということが記されています。このエピソードはガイドブック等には必ず紹介されているものですが、なにせ開鑿から300年後に書かれた記述ですのでそれ相応の脚色はあると考えたほうがよさそうです。



敦煌のすぐ西には1世紀から3世紀に繁栄した鄯善国(かつての楼蘭国)がありました。ここでは当時すでに仏教が栄え、組織化された巨大な教団もあったようです。3世紀ごろから活発になった敦煌の仏教も当然その影響を受けていたに違いありません。(このころには「敦煌菩薩」と称される高僧・竺法護などを輩出しています。)当時の敦煌には相当数のインド僧や西域僧の往来があったと思われます。

4~5世紀の中国は五胡十六国時代と呼ばれる混乱期です。ゆえに安寧をもとめる人々に仏教は受け入れられていきました。しかし、布教のためにはるばる沙漠を越えてやってきたインド僧や西域僧は、ここ敦煌に辿りついたものの、河西や中原での戦乱のため都へ上ることが出来ません。戦乱が収まるまで彼らの多くが敦煌での滞在を余儀なくされます。滞在が長引くにつれ、やがてここに定住する者もでてきました。

当時の河西の仏教は禅定(ぜんじょう)を重視していました。禅定とは心を静めてひとつの対象に集中する瞑想や修行のことです。具体的には俗世間を離れた静かな場所で、ひたすら仏の姿を観るというものです。(俗世間を離れるとはいっても水と食糧がなければ生きてはいけません。そのため近くに河があり、なおかつ集落まで托鉢に行ける距離でなければなりません。これはクチャやトルファンの石窟群も雲崗や龍門石窟にもあてはまります。)インドではじまった石窟寺院という礼拝スタイルは、禅定という修行のスタイルと融合して仏教の重要なアイテムとなります。

敦煌に定住を決めた僧たちは、敦煌の人里はなれた鳴沙山の断崖に修行のための洞窟を掘りはじめます。そして一人また一人とやってきた僧たちによって次々と石窟が開かれていったのでしょう。莫高窟に作られた初期石窟がインド式の石窟構造や西域風の顔立ちをした仏像であることなどがそのことを物語っています。

このようにして多くの無名のインド・西域僧たちによってはじめられた石窟寺院に、やがて有名な中国人僧である楽僔がやってきたために、彼を莫高窟の創健者としたエピソードがつくられ、今に語り継がれたと考えるのが自然なのではないでしょうか。




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