敦煌の歴史 02 月氏と匈奴


紀元前5世紀ごろ(日本では縄文時代)、現在の河西回廊地方で活躍していたのは、のちに中国から『月氏』(げっし。または禺氏・ぐうし、和氏・かし)と呼ばれた民族でした。広大なモンゴル高原の西半分および中国と西域を結ぶこの地を支配していた月氏は古くから東西交易で活躍をしていました。



次項で詳しく述べますが、よくシルクロードは前漢の武帝が張騫(ちょうけん)を西域に派遣したことに始まると言われるのですが、それはあくまでも「中華王朝が正式に」交易をはじめたということであって、実際にはそれ以前から騎馬民族を仲介とした民間交易は行われていました。

現在でもシルクロードの代表的な産品といえばシルクと玉(ぎょく・翡翠のなか ま)ということになります。シルクは中国の重要な輸出品でした(後世、ローマ帝国が滅んだ原因の一つが、高価な中国シルクを買い漁ったための銀貨の流出)が、反対に玉は最も高価な輸入品であったといえます。いまでこそ私たちは玉で作った夜光杯などの工芸品を気軽にお土産として買い求める事ができますが、古代の中国人にとって玉は皇帝や王侯貴族が身につける装飾品でした。当時の中国人はその玉が西域ホータンの崑崙山で採れるということをまだ知らなかったので、その交易を担っていた月氏にちなんで「禺氏の玉」や「和氏の璧」と呼んでいました。また西方世界では月氏のことを「セレス(絹)」と呼んでいたことから、当時彼らがいかに絹、玉の交易を独占していたかが想像できます。

紀元前3世紀のアジアは、甘粛の月氏にくわえ、内蒙古地方の東胡(とうこ)、中原の秦が繁栄していました。その三国の間にいた小さな集団が中国から匈奴(きょうど)と呼ばれる民族でした。のちにアジアを席巻する匈奴もこのころはまだ集団としてのまとまりがなく、秦の将軍・蒙恬(もうてん)の軍団に屈し領土であったオルドス(現在の寧夏地方)を奪われ北方に追いやられるといった具合でした。この匈奴はのちに冒頓単于(ぼくとつぜんう、冒頓は名前、単于は匈奴の王の称号)のもとで北アジアを統一するようになるのですが、そのプロセスが司馬遷の「史記」の「匈奴伝」に詳しく記されています。

父である頭曼(とまん)単于は後妻の子をかわいがっていたため、本妻の子である冒頓を疎ましく思い月氏に人質に出して融和政策をとっていました。しかしとつぜん頭曼率いる匈奴が月氏を攻めました。そうすることで怒った月氏が人質の冒頓を殺してくれるだろうと考えたからです。しかしそのことに気づいた冒頓はなんとか逃走に成功したのです。匈奴に帰った冒頓は英雄となったので、頭曼もしかたなく息子を受け入れます。一方冒頓はある計画を立て、部下たちにこのように命令しました。「今後わたしが矢を射れば必ずそれに従って矢を射れ そむく者は斬って捨てる」と。あるとき冒頓はとつぜん愛馬に矢を放ちました。びっくりして矢を射らなかった部下たちをほんとうに斬り殺してしまいました。またあるとき愛妻に矢を放ちやはり従わなかった部下たちを斬り殺しました。つぎに頭曼単于の愛馬にも矢を放ち、今度も射らなかった部下たちを斬りました。紀元前209年、父頭曼単于と猟に出たとき、冒頓が父に向け矢を放つとついには部下たち全員が矢を放ち単于を射殺したのです。多くの部下を共犯者に仕立て上げ、もうだれも冒頓に逆らうことはできなくなりました。匈奴の冒頓時代のはじまりです。

匈奴をまとめあげたといってもまだまだ強国の東胡や月氏には及びません。
あるとき東胡王から匈奴の最高の馬を献上せよと要求がありました。群臣はみな反対しましたが冒頓は、「たった一匹の馬で隣国との関係を悪くしてはいけない」と言い最高の馬を贈りました。次に東胡はなんと冒頓の王妃を要求してきました。群臣は怒りました。しかしこんども冒頓は「たったひとりの女のために隣国との関係を悪くしてはいけない」と言い王妃を贈りました。東胡は完全に匈奴を見下していました。さらに東胡は、東胡と匈奴の間にあるうち棄てられた土地があるのでその土地をよこすよう要求してきました。しかし群臣たちは、あんな土地は使いみちがないし馬や王妃のこともあるので、与えてもいいでしょうと進言しました。すると冒頓は「土地は国の本である。どうして土地を与えることができるのかっ!!」と言うや否や出陣命令をだして東胡を急襲し、東胡王を殺して大勝利を収めました。

強力な冒頓のリーダーシップのもと匈奴は日に日に勢力を増し、勢いづいた匈奴は次に月氏を攻撃し、ついには月氏王を捕らえてその首を斬り王の頭蓋骨で杯をつくり酒を飲んだと伝えられています。生き延びた月氏人たちははるか西方(アフガニスタン北部)まで敗走しました。さらに中原の混乱に乗じてかつて秦に奪われたオルドスも奪還。

紀元前176年、冒頓は漢の孝文帝に書を送りました。「我々は天命と勇敢な兵士と駿馬をもって、月氏を滅ぼした。楼蘭、烏孫(うそん)、その他周辺の小国二十六国は全て匈奴の支配下に入った。」と。こうして河西回廊は匈奴の支配するところとなり、敦煌を含む河西回廊西部は渾邪王(こんやおう)が、東部は休屠王(きゅうとおう)が統治を担当しました。またタリム盆地を統治した日逐王(じつちくおう)はオアシス諸国やキャラバンから税を取りたて、匈奴は経済的にも発展していきました。

いまでは「敦煌=らくだ」というイメージが定着していますが、意外にも古代の敦煌は、騎馬民族興亡の土地だったのです。


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