敦煌の歴史 09 三国、魏晋南北朝時代


後漢末から途絶えていた西域との交通ですが、魏の文帝は222年に河西四郡を復活させ、高昌(トルファン)に戊己校尉(ぼきこうい・西域を統治する武官の役職)を置くことで再開させました。こうして敦煌は魏の統治下に入りました。

このころインドや西域から多くの布教僧が経典を携えてやってきました。仏教が中国にも本格的に広がり始めます。とくに中国の玄関口である敦煌では、長旅に一息ついたり中原への旅装を整えたりと、多くの僧侶が滞在することになります。高名な西域僧が多く集まることで、彼らに会いたいとさらに多くの僧侶が敦煌に集まりました。やがて敦煌は中国仏教の聖地となっていくのです。

一方、中原では三国時代です。魏呉蜀の戦いは続きます。劉備や諸葛孔明亡き後の蜀は力を失い、263年に司馬仲達率いる魏軍に滅ぼされます。265年、仲達の孫の司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて武帝として即位。洛陽に晋を建国して魏も滅びます。そして280年には晋が呉を滅ぼしてここに三国時代は終わり、後漢以来の統一王朝、晋の時代がはじまります。

晋は魏の政策を継承して西域の経営にも積極的でした。楼蘭遺跡やニヤ遺跡から発掘された多くの木簡資料によると晋の西域における支配力はかなり大きかったようです。そしてその実質的な統括には敦煌の太守(郡の長官)があたっていました。3世紀の中頃、晋の初めの敦煌は再び中原王朝の西域経営の重要拠点となっていました。

しかしその晋も次の恵帝に才覚がなく一族の政権争い(八王の乱・290~306年)を招きます。その混乱に乗じて華北には五胡が侵入。五胡とは五つの異民族で匈奴、鮮卑(せんぴ・モンゴル系)、羯(けつ・モンゴル系)、氐(てい・チベット系)、羌(きょう・チベット系)を指します。現在は地球の温暖化が世界の大きな問題になっていますが、4世紀のこのころは地球寒冷化の時代でした。北方の遊牧民は家畜のエサを求めて草原を南下せざるを得ません。この時代、大量の五胡が侵入してきたのにはそういう事情もあるにせよ、そこでの農耕民との衝突は避けられません。
内からも外からも攻められ弱体化した晋は316年匈奴によって滅亡します。(翌年、一族の司馬睿(しばえい)が江南へ逃げて建業(南京)で晋を再興したので、以後は洛陽の晋を西晋、建業の晋を東晋と呼んで区別します。)




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