敦煌の歴史 12 隋時代


北周の創業期からの家臣である楊忠を父に持ち、娘を北周宣帝の皇后として嫁がせた楊堅は北周王朝内で外戚として実権を持っていました。581年、孫の静帝から禅譲を受けて文帝として即位すると大興(長安)に都をおいて国号を隋と改めます。さらに589年には南朝の陳を滅ぼして中国を統一しました。

遡ることこと574年、道教に傾倒した北周の武帝は仏教を弾圧して廃仏令を出しましたが、この影響は河西地方にも波及したようで敦煌でも多くの寺が荒廃したままになっていました。しかし文帝は熱心な仏教信者だったので仏教の復興と保護に尽力します。在位中に16万体以上の仏像を作り、150万体以上の壊れた仏像を修理させ、莫高窟にも舎利塔を建立したと言われています。隋代における河西地域の中心は張掖に置かれていましたが、莫高窟を擁する仏教の聖地敦煌では多くの寺院が再興され多くの石窟が造営されました。

次の第二代煬帝(ようだい)も同じく仏教を保護して多くの仏像を作らせたようです。西域の経営にも積極的でしたが、隋の西域進出を阻んでいたのは北方の突厥(とっけつ チュルク=トルコ)と青海地方の吐谷渾(とよくこん ドルグ)でした。突厥はトルコ系の遊牧民族で元々は柔然の支配下にありましたが、6世紀半ばには独立して勢力を拡大してきました。対突厥戦略の任に就いたのは北周時代からの将軍である長孫晟(ちょうそんせい)です。彼はかつて北周の公主が突厥の可汗(かがん 柔然から用いられた王の称号。突厥、ウイグル、モンゴルなども使用)に降嫁するのに従って突厥に赴いた際、沙鉢略可汗(さはつりゃくかがん イシュバラカガン)に厚遇され一年以上を突厥陣中で過ごしたことがあります。突厥の内情に詳しい彼の智謀策略によって、突厥は東西に二分され弱体化していきます。

一方の吐谷渾は、4世紀に鮮卑族の一部が青海地方に移って、土着の羌(きょう チベット系)を支配した国ですが、内紛によって混乱しているところを隋に攻め入られてチベット高原へ敗走します。吐谷渾の所領は鄯善(かつての楼蘭)や且末(しょまつ チェルチェン)にまで及んでいたので、隋の勢力はタリム盆地の南方にまで大きく進出しました。

西域を平定すると、西暦609年には煬帝は自ら河西回廊まで巡幸しました。張掖では西域 27カ国の使者たちが煬帝に謁見したほどです。隋の西域支配によって東西交易路の安全は確保され、多くのキャラバン隊が行き交うようになります。新北道(現在の天山北路)、北道(現在の天山南路)、南道(現在の西域南道)の三本の交易路が集約する敦煌は大いに発展しました。

しかし、煬帝による大運河の建設や度重なる高句麗遠征の失敗などで、民衆は疲弊し財政もひっ迫して隋の勢いは衰えます。やがて黄河の氾濫を契機に民衆の不満が爆発しました。各地で反乱が起こり、自ら王を称する豪族が乱立します。617年、煬帝のいとこである唐王・李淵は、混乱に乗じ挙兵して大興(長安)を陥落させると煬帝の孫の楊侑を擁立して隋の三代・恭帝として即位させます。618年に煬帝が家臣に暗殺され、ここに隋はわずか38年で幕を閉じます。李淵は恭帝に代わって自ら即位して国号を唐としました。あとは他の豪族たちを平定するのみです。

河西地方では、涼州(武威)で李軌(りき)が挙兵(617)。河西大涼王を名乗り、張掖、敦煌など河西回廊一帯を占領します。李淵は、金城(蘭州)で乱を起こした秦王の薛挙(せつきょ)を討つために、涼州の李軌に協力するよう使いを送ります。その際、涼州総督の位を与えるので唐に従属するように迫られると、李軌はこれをはねつけたうえ「大涼皇帝」の名で返事を送りました。怒った李淵は大涼を攻めて、捕らえられた李軌は長安で処刑されてしまいます(619)。敦煌はこの間のわずか三年だけ大涼国の支配下にありました。

翌620年、唐は李淵の息子の李世民の活躍もあり次々と各地の王を倒します。そしてついに624年に中国を統一します。中国史上最も華やかな時代と言われる唐代がはじまります。




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