敦煌の歴史 04 前漢時代 張騫、大月氏へ


武帝は大月氏への使者を世間から募りました。

それに応えたのが張騫(ちょうけん)という男でしたした。下級役人だった彼がこのまま出世の見込みもないのならと人生を賭けた大勝負に出たのか、それともほんとうに国を憂いて命をささげようとしたのか?詳しいことは分かっていません。

【莫高窟第323窟北壁 「張騫出使西域図」 馬上の武帝と命を受ける張騫】

前139年 張騫は匈奴の捕虜である甘父を補佐役に百余名の従者とともに長安を旅立ちました。しかし一行は漢土を出たとたんに匈奴に捕らえられてしまいました。そのご彼は10年にわたり捕虜生活を余儀なくされました。しかし捕虜といっても監禁されていたわけではありません。彼を生かしておくことで漢との戦いにおいて何かの役に立つと考えたのでしょう。匈奴人の妻を与えられ二人の子供ももうけました。

一方そのころ、張騫からの音信が途絶えると、前133年ごろからしびれを切らした武帝は単独での匈奴討伐に打って出ます。文帝時代にはじめた軍馬育成と騎兵隊の訓練によって武帝の時代には匈奴に対抗できるだけの大騎馬軍団ができあがりました。また活躍した兵士には大金を褒美として与えたことで、大量の農民たちが志願し兵力も充分なものでした。騎馬戦用の戦術も身につけた漢軍は将軍衛青(えいせい)、公孫賀(こうそんが)、李広利(りこうり)、霍去病(かくきょへい)たちの大活躍で匈奴を追いつめていきました。

その間、匈奴から馬を盗んで脱走した張騫は数人の仲間とともについに大宛国(現在のウズベキスタン・フェルガナ地方)に辿り着きます。もともと大宛は漢が大国であることを知っていて、チャンスがあれば交易をしたいと思っていたところに張騫がやってきたため、大宛王は大いに喜びました。張騫の目的が大月氏へ行くことだときいて、通訳や馬を与えてかれの大月氏行きを援助しました。前129年(推定)、張騫はついに念願の大月氏国に辿り着きました。

しかし結果は予想外でした・・・。かつて匈奴に追われた月氏の末裔たちは、この地(現在のアフガニスタン北部)で新たな生活をはじめ、いまでは豊かで平和に暮らしていました。匈奴への恨みはあるものの、かといって今の平和をわざわざ捨ててまで匈奴と再び戦う気はまったくないのです。張騫はここに1年余り滞在し説得にあたりましたが、結局同盟を結ぶことはかなわず失意のうちに帰国の途に着きます。しかも帰りにも再び匈奴に捕らえられるという不運。1年余りをまた捕虜として過ごしたとき、匈奴の内紛の混乱に乗じて逃走。出発から13年の前126年、とうとう彼は長安に帰ることができました。本来の目的である大月氏との同盟は果たせませんでしたが、彼が持ち帰った西域の情報は武帝の交易熱を激しく刺激しました。

張騫の報告で匈奴は冒頓の死後、強力なリーダーが現れずに内紛状態であることもわかりました。張騫のアドバイスをうけ、前124年から衛青と霍去病が相次いで大戦果をあげました。河西を統治していた渾邪王と休屠王は仲間割れを起こし渾邪王は休屠王を殺して漢に降伏しました。紀元前2世紀初め、ついに漢は河西回廊から匈奴を駆逐したのです。

さらにこの機を逃さず前119年には匈奴の本拠をも攻撃。この戦いにも圧勝して匈奴は遠く北のモンゴル高原まで敗走し、以後、ゴビの南に匈奴の王庭はなくなりました。




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