敦煌の歴史 08 新、後漢時代 班超の西域経営


永遠に続くかのように思われた漢の治世にも終わりが来ます。常に優秀な人材が世襲するとは限りませんし、権力の座を狙うものはいつの世にもいます。元帝、成帝、哀帝と力のない皇帝が続き、ついには外戚の王莽(おうもう)が幼い平帝から帝位を奪い「新」という王朝を建てます。210年続いた漢の時代がおわりました。

しかし王莽は人望もなく悪政だったためいきなり国は乱れます。赤眉の乱をはじめ多くの反体制武装集団がうまれその混乱の中であっけなく王莽は殺されました。しかし赤眉軍やその他の軍団も所詮は単なる武装集団にすぎず、都長安で略奪行為をくりかえして政治どころではありません。人々は漢代を懐かしみます。豪族たちから推戴されて挙兵した漢王朝の血統である劉秀の軍が混乱に終止符を打ち、光武帝として即位し漢王朝を復興させました。

このころ都での戦乱を嫌って多くの人が比較的平穏な河西地帯へと流れ、敦煌にも多くの人たちがやってきました。彼らは単なる流民ではありません。もともと都に住んでいた人たちで財産を守るために逃げてきた富裕層です。また長安の文化や技術が伝わったことでも敦煌はますます発展をしていきます。

戦乱により長安は荒廃していたので光武帝は東の洛陽にあらたな都を置きました。これが後漢王朝です。ただし前漢・後漢という呼称は日本独自のもので、中国では長安に都した先の王朝を西漢、洛陽に都した王朝を東漢と呼んでいます。(ちなみに江戸時代に志賀島で発見された「漢委奴国王」印は光武帝が奴国の使者に授けたものです。)


王莽の時代には西域経営は放棄されていたので、西域諸国はまたしても匈奴の支配下にありました。
新が攻めてくる心配もないので匈奴は彼らを搾取し放題です。後漢が建国したことを知り諸国はみな光武帝に使者をおくって西域都護の設置を求めましたが、国内を立て直すのが先であって西域経営は時期尚早として設置を認めませんでした。

西域諸国は大国に服属しないと生きていけません。耕地が限られた沙漠のオアシスでは人口も限られますし軍馬を育成する事も難しいからです。つまり自前で強力な軍事力を持てない彼らは漢や匈奴と戦うことができません。その時々の情勢を見て漢につくのが得か匈奴につくのが得かを判断します。楼蘭のように二股をかけることもあります。それが小国が生き延びるための知恵です。王莽時代には匈奴側についた諸国も、今では匈奴の圧政に耐えかねて後漢を頼ったのですがそれは叶わなかったようです。

消極的な後漢の態度から、北匈奴(東匈奴がさらに南北に分裂)はたびたび河西に侵攻するようになりました。そして後漢は73年、第二代明帝の時代になってようやく西域経営に乗り出しますが、長いブランクの間に匈奴が復興していたことや西域諸国の求心力が薄れていたことなどで苦戦を強いられます。しかし司馬(軍の長官)・班超が鄯善で匈奴の使節を皆殺し(このとき多勢に無勢だと言った部下に対し班超が「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と言ったことは有名です)にして匈奴側についていた鄯善を漢に服属させることに成功。その後も班超の活躍によって諸国を服属させていったのですが、75年、北道での匈奴との戦いのときに都では明帝が亡くなります。

ちなみにこの明帝の時代に西域を通ってやって来たインド僧、竺法蘭(じくほうらん)と迦葉摩騰(かしょうまとう)によって初めて中国に仏教が伝えられたと言われています。そして彼らを歓迎して建てられたのが中国最初の仏教寺院である洛陽の白馬寺です。(ただし彼らは架空の人物という説もあります)

次に即位した章帝は西域経営に消極的で班超にも帰国命令が出されました。しかし于闐王にどうか匈奴の圧政から守ってほしいと懇願され留まることを決意します。西域の人たちからも人望を集めた班超が西域都護として活躍しているあいだ、諸国はみな漢に服属していました。そしていつしか西域を治めること30年。もう70歳を過ぎた班超は望郷の念に耐えられずに上申します。

--自ら寿を全うして屯部に終わらば誠に恨むところなし。然りといえども、後世あるいは臣を名ざして西域に没すと為さん。臣敢えて酒泉郡に至を望まず、願わくば生きながらにして玉門関に入らんことを。--

彼の願いは聞き入れられ漢土である敦煌を目指します。望みは叶い生きて玉門関をくぐることができました。さらに都洛陽にたどりついた班超はそれから一月足らずで亡くなります。


班超亡き後の西域は乱れます。消極的な後漢のもとでも諸国を治めていけたのはひとえに彼の人望でした。新しい西域都護は人心をつかみきれずその次の都護でも混乱は収まりません。
107年、時の安帝は正式に西域経営を放棄。都護、官吏、屯田、軍隊のすべてを撤退させ、以後玉門関は堅く閉ざされました。班超没後わずか5年のことでした。

その後の後漢王朝はなぜか皇帝が早世し(皇帝が早死にするので子どもは成人するまえに跡を継がなければならなくなります)、幼い皇帝の即位が続きました。そして皇帝の権力が衰えると外戚や宦官たちが権力闘争に明け暮れ、政治は乱れて各地で農民の反乱も起こりました。世の混乱の中で太平道という宗教組織が巨大化します。184年、やがて彼らが漢を倒すべく起こした反乱が「黄巾の乱」です。

反乱は各地の豪族によって鎮圧されましたが、つぎは豪族たちの覇権争いが始まります。その中から後漢の後ろ盾を得た曹操が台頭。劉備が孫権と連合して赤壁の戦いで曹操軍を破ったことで三つ巴の時代へと突入します。220年に魏の建国者・曹操の子、曹丕(そうひ)は後漢の献帝から禅譲を受けて魏の初代皇帝・文帝として洛陽で即位。ここに400年にわたる前漢・後漢時代は終わりました。しかし一方自分こそが漢の正統の子孫と称する劉備は蜀(成都)に漢を建て(一般には蜀や蜀漢と呼ばれますが正式な国号は漢)、照烈帝として即位します。さらに孫権も建業(南京)で呉の大帝として即位して、以後約60年にわたる魏・呉・蜀の三国分裂時代が始まります。




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