敦煌の歴史 11 北魏、西魏、北周時代
439年、北涼を征圧して華北を統一した北魏は河西回廊を支配します。このとき敦煌にいた北涼の沮渠無諱(しょきょむい)は高昌(現在のトルファン)へ逃れて高昌北涼国を建てます。主のいなくなった敦煌に、かつて敦煌に都した西涼国の末裔・李宝が目をつけます。沮渠無諱が敦煌を棄てたことを知ると西涼の遺民を率いて敦煌を占拠します(442)。そして北魏の太武帝に入朝して属臣となります。太武帝は西域経営と北方の柔然に対する前線基地として敦煌鎮を設置。李宝を沙州牧敦煌公(州の長官職)に任じて、敦煌の実質的な支配を任せました。やがて北魏は将軍の万度帰(まんどき)を派遣して西域を平定、東西交易も盛んになったので、敦煌はまたも北魏の西域経営の重要拠点として大いに発展します。
このころ、熱心な仏教信者であった第4代・文成帝は、北涼の統治下時代の敦煌で莫高窟の造営に携わっていた僧侶たちを都の平城(現在の大同)へ移住させます。その沙門統(僧侶のリーダー)・曇曜(どんよう)に命じて雲崗石窟の造営が始まりました(460~)。
北魏6代・孝文帝(拓跋宏)は幼少のころより伝統的な漢文化を学びました。諸子百家や儒学などの古代中国思想・学問に傾倒していった彼は、494年に部下たちの反対を押し切って、都を大同から中華の古都・洛陽に遷都します。(遷都と同時に龍門石窟の造営も始まります)
孝文帝の漢化政策はさらにエスカレートし、自分たち鮮卑族の言葉や服装などを禁止して、漢民族の言葉や服装を強制します。また鮮卑族と漢民族の婚姻を奨励し、ついには自分たち部族の名前である「拓跋」を漢人風の「元」と改名してしまいます。(拓跋宏→元宏)。(孝文帝の極端な漢化政策の理由については、
九州大学・川本芳昭教授の説をご覧ください)
524年、孝明帝は敦煌鎮を瓜州と改めると、翌年には明元帝の孫の東陽王・元太栄(拓跋姓を元姓に改めた鮮卑族の皇統)が瓜州刺史(州の長官)に任じられます。彼は仏教を篤く信仰していて、初期の莫高窟の興隆に大きく貢献した人物です。
漢化政策によって国内では鮮卑族の不満が高まります。孝文帝の死後、やがて北魏は漢人系の東魏と鮮卑系の西魏に分裂し(534)、敦煌は西魏の支配下に入ります。
そのご東魏は漢人高氏の北斉に(550)、西魏も鮮卑宇文氏の北周に(556)取って代わられます。577年には北周が北斉を滅ぼし再び華北を統一しますが、北周の5代静帝が幼かったことから摂政の楊堅が禅譲を受けて国号を隋とします(581)。
華北を統一した隋は次に南朝の陳を滅ぼして(589)ついに中国全土を統一します。実に後漢末の黄巾の乱以来、約400年にも及ぶ大混乱の時代に終止符が打たれました。
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