敦煌の歴史 05 前漢時代 張騫,烏孫へ 敦煌郡の誕生
漢との戦いに敗れた匈奴は長年にわたって支配していた河西を捨てゴビの深くへと退却。匈奴のいなくなった河西回廊をどのように統治するか。張騫は武帝に進言します。天山山脈の北、現在のイリ地方に烏孫(うそん)という国があり、王の昆莫(こんばく)はかつて父を匈奴に殺されています。かたちのうえでは匈奴の属国ですが忠誠心はありません。その烏孫と友好を結び、烏孫国民を河西に移住させ匈奴が再び南下するのを牽制しようというアイデアです。
こうして張騫は再び西域への使者として旅に出ます。
烏孫に着いたかれは昆莫と対面し河西への移住を打診します。しかし漢の国力がどの程度なのかがわかりません。つまり漢についたほうがいいのか匈奴についたほうがいいのか判断できなかったのです。まして昆莫はすでに年老いており、後継者争いの内紛も起こっていたためにそれどころではなかったのです。大月氏のときと同じく望む結果は得られませんでした。
張騫は烏孫の使節をともなって帰国します。漢が大国であることを知ったかれらは帰国してから昆莫を説得し、烏孫は多くの名馬(武帝はこれを西極馬と呼びました)を贈り正式に漢との国交を結びました。(このとき漢から昆莫に嫁がされたのが有名な烏孫公主です。)またこのとき同行した多くの副使たちを烏孫の協力により、大宛(フェルガナ)、康居(キルギス)、大月氏(アフガニスタン)、大夏(トカラ)、安息(パルチア)、身毒(インド)、于闐(ホータン)などに送りました。張騫のように名は残らないけれど、多くの無名の遣使たちの西域行はのちに華やかなシルクロード交易として実を結びます。
一方烏孫移住計画が空振りに終わったため、漢は自ら移住することを決めます。河西の地に武威と酒泉の二郡(郡は軍事拠点となる都市)の建設を始めます。のちに新たに張掖、敦煌の二郡も設置。これを河西四郡と呼びます。河西一帯の安全を保障するために酒泉から敦煌に至る万里の長城を建設して北方の警備を強化。敦煌西郊には国境の関門を置きました(かつて月氏や匈奴に独占されていた玉の交易権をこんどは漢が手に入れたためこの関門を玉門関と名付けました)。そして内地から大量に貧民や囚人たちを徴兵し、これらの地に定住させるとともに屯田兵として国境の防備に当たらせたのです。これにより敦煌以東の河西回廊は着々と漢化が進んでいきました。
当時の敦煌郡は、敦煌県、冥安(めいあん)県、效穀(こうこく)県、渊泉(えんせん)県、広至(こうし)県、龍勒(りゅうろく)県の六県を管轄。これは現在の敦煌市、瓜州県、阿克塞哈薩克(アクサイハザク)族自治県、粛北(スーペイ)蒙古族自治県にあたります。つまり漢代の敦煌とは現在の4つのエリアをまとめた広大な地域です。
余談ですが四郡の地名について。
「武帝の威河西に達す」という意味の武威は軍事拠点としてふさわしい名前です。張掖は「腋(わき)を張る」、つまり仁王立ちのイメージです。ここからは一歩も匈奴を通さないという意味でつけられたのでしょう。酒泉の由来は、かつて匈奴戦のためこの地にいた将軍・霍去病をねぎらうため武帝が酒を贈ったのですが、戦功は自分ひとりではたてられないといって霍去病は泉の水で酒を割り兵士たちにもふるまったというエピソードからつけられたという説があります。、
そして敦煌の地名の由来ですが、多くのガイドブックなどでは「敦は大きく、煌は盛んという意味でつけられた」と紹介されていますが、どうやらこれは後付けのようです。中国には表音文字はありませんので中国語以外の言葉を表記するには音訳か意訳をする必要があります。「楼蘭」も現地名クロライナに近い発音の「ロウラン」という漢字をあてたものです。当時この一帯をソグド人がダルワンと呼んでいたことなどから、おそらくこの「ダルワン」に近い発音の「敦煌・トンホワン」という漢字をあてたものと推測されます。そのさいにどうせつけるなら「大きい」「盛ん」といった意味のある字を選んだんのでしょう。
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