敦煌の歴史 06 前漢時代 李広利の大宛遠征
対匈奴の国境警備の最前線基地として敦煌郡が建設されたことで、多くの漢人が屯田兵として入植してきました。先進的な生産技術が導入されて農業は飛躍的な発展をとげました。しかしそうは言ってもまだまだ辺境の一都市にすぎません。しかしこのあと、敦煌が劇的に発展する出来事がおこります。
東西交流が活発になるにつけ、いろいろな西域の情報も武帝の知るところとなります。
遠く大宛国では多くの名馬を産することを知った武帝は、使者に千金を持たせ名馬を買ってくるように命じました。当時の馬は現代でいうなら戦闘機のような存在です。騎馬民族との戦いにおいては速い馬ほど戦闘能力がアップするわけですから、馬の善し悪しは戦争の結果を大きく左右します。西極馬と呼んだ烏孫の馬よりもさらに名馬と噂される大宛の馬は喉から手が出るほど欲しかったのです。
しかし大宛王は使者の申し出を断ります。大宛国にとっても重要な種馬であり手放したくはありません。しかも漢は遥か遠くの国です。河西回廊以西の地はいまだに匈奴の影響力がありいくら漢といえどもここまで攻めてくるはずは無いと考えたからです。しかも帰途につく使者たちを襲い金品を奪ったのです。
激怒した武帝はなんと遥か大宛への遠征を決行します。武帝は寵愛する若き李夫人の兄である軍人ではない李広利を将軍に抜擢し、非行少年数万人を集めて兵として送りました。軍事力の弱い大宛には充分だと考えたからです。ところが沿道のオアシス小国は、軍団があまりに粗暴そうだったので略奪を恐れて城門を堅く閉ざしてしまいました。食糧さえ手に入らなくなった遠征軍は餓死者や逃亡者が続出。大宛についたときにはわずか数千人しか残っていませんでした。戦う気力さえなくした李広利軍は大敗を喫し、ようやく敦煌にもどったときの軍勢は出発時の一割にも満たなかったといわれます。
敗走の知らせに武帝は怒ります。玉門関を閉じて遠征軍を締め出しました。長年にわたり強敵の匈奴と戦ってきた武帝にすれば大宛などは赤子の手をひねるようなものだったはず。この結果はとうてい受け入れられません。またもしこのまま引き下がれば西域諸国は漢の軍事力を見くだします。そして匈奴の側についたほうが得策と考えるでしょうし、今後漢の使者たちはことごとく殺されてしまうに違いありません。本来なら李広利は死罪になるはずですが、夫人の兄ということで汚名返上のチャンスを与えられます。武帝は李広利を敦煌に待機させたまま続々と援軍を送ります。
匈奴に邪魔されないように、すでに玉門関まで延びていた長城や烽火台をロプノールまで延伸。前102年、単なる前線基地であった敦煌に騎兵6万、牛10万、馬3万、ラクダ1万と大量の食糧や物資が送り込まれました。また彼らの寝食をあてこんで商店なども建ち並びます。そうしてさらに多くの人、モノ、金が集まります。こうして敦煌はそれまでの単なる国境防衛のオアシスから、大宛遠征の根拠地として想像を絶する大オアシス都市に発展したのです。(この結果、前93年ごろに酒泉郡の管轄から独立して敦煌郡が設置されたと推測されます。)
漢軍のあまりの大兵団におどろいた小国はみなこれに従いました。あきらめた大宛は王の母寡(ぼか)を殺して降伏。武帝のプライドをかけた大宛再征は大勝利し、李広利は汗血馬数十頭と名馬3千頭を手に入れ凱旋しました。
この大遠征により、西アジア諸国は漢の軍事力を目の当たりにして以後は漢に従うようになり、漢の西域経営は大きく前進しました。
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16