敦煌の歴史 03 前漢時代 武帝登場


紀元前200年、冒頓は兵40万を率いて中国の太原地方まで侵入してきました。当時の漢は建国したばかり(劉邦が前206年に秦を倒したのち項羽と覇権を争い、前202年に垓下の戦いで勝利して天下を統一)でしたが、初代皇帝高祖(劉邦)はかつて秦の蒙恬が匈奴を討伐した故事にならい匈奴を撃退しようとしたのですが、逆に大同の白登山で七日間にわたり四方を包囲されてしまいました。けっきょく貢物をして命からがら逃げ帰るという始末です。その後は匈奴に対して公主(王族の娘)や絹などを贈りつづける屈辱的な外交を強いられました。

漢時代というと遠く西域までを支配した強大な大帝国をイメージしてしまうのですが、実際に紀元前2世紀ごろのタリム盆地東部と河西を支配していたのは北方の遊牧騎馬民族匈奴でした。



冒頓単于亡き後は息子の老上(ろうじょう)が単于となり、周辺のオアシス国家やキャラバン隊から税をとりたてるなど東西交易の実権を握っていた匈奴の勢いはとまりません。そのような状況が数十年続いたのち、漢は第七代皇帝・武帝が16歳で即位します。
後の世界史を大きく変えるキーマンが武帝です。

高祖の一件以来の屈辱的な関係は、冒頓の孫、軍臣(ぐんしん)単于と武帝とのあいだでも続けられていました。しかしそれゆえに大きな戦もなかったことで、ふつうなら財政の負担になるはずの戦費が抑えられました。戦乱がないことで人口も増え、国の財政も潤って漢は着実に国の土台を築き上げていったのです。とくに五代文帝・六代景帝時代にはやがてくるであろう対匈奴戦に備えるかのように、皇帝自身も華美な生活を慎み国の財力はますます蓄積されていったのです。とくに文帝は軍事戦略の大転換を図りました。戦国時代から続く中原での諸国間の戦争では主力編成は戦車でしたが、対匈奴のために騎兵部隊を主力としたのです。

そんな状況下で登場したのが武帝でした。血気盛んな性格の武帝は、いままでのような匈奴に対する屈辱的な関係を打破したいと考えていました。そんなおり、かつて匈奴によって滅ぼされ西方へ追いやられた月氏(現在の国名は大月氏)が匈奴への反撃のチャンスをうかがっており、匈奴攻撃に協力してくれる国を探しているという情報を得ました。武帝はなんとか大月氏に使者を送りたいと思いましたが、当時オルドスからタリム盆地にかけてはことごとく匈奴の支配地であり、そこを通って大月氏へ赴くのは不可能でした。命の保証もない任務です。




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