敦煌の歴史 07 前漢時代 匈奴の衰退
各国の使節団や、多くのキャラバンの隊商が往来することとなった西域。一見平和で華やかに見えますが決して楽観はしていられません。漢の大宛遠征の成功をみた匈奴は脅威を感じて、精鋭部隊を組織して巻き返しを図ったのです。
大宛遠征からおよそ10年ほどのあいだの戦いで漢は苦戦します。
かつて匈奴から楼蘭や姑師(トルファン)を攻略した将軍趙破奴(ちょうはぬ)、中島敦『山月記』で有名な将軍李陵、大宛遠征の李広利たちが相次いで匈奴に敗れ捕虜となります。武帝が匈奴討伐をはじめてから30数年、経済的逼迫によりついに西域の屯田を放棄したのち、心労もかさなり病没します。
しかし、あとを継いだ昭帝の時代に匈奴では後継者争いによる内乱が起こります。そのすきをつくように西域への要衝である楼蘭を攻略します。反漢親匈奴派の楼蘭国王・安帰(あんき)を暗殺。親漢派の尉屠帰(いとき)を新王に截て、国名も『鄯善(ぜんぜん)』と改めて完全な傀儡王国としました。
またつぎの宣帝の時代には漢は烏孫と連合して匈奴を攻め、さらには北方からトルコ系遊牧民族・丁令(ていれい)が、モンゴル東部からはかつて匈奴に滅ぼされた東胡の末裔、烏桓(うがん)が匈奴を攻めたてます。また匈奴の西域経営の責任者でもあった日逐王・先賢撣(じつちくおう・せんけんたん)が後継者争いにやぶれたため漢に寝返るなど、ふたたび形勢が逆転してついに匈奴は西域から退却します。この機に宣帝は烏塁(うるい・現在のクチャ)に西域都護府を設置しました。西域都護とは「西域を都(す)べて護る」という意味の駐屯軍の長官です。匈奴の力は衰え西域は完全に漢の支配下に入りました。
一方、勢いを失った匈奴は内紛が絶えず単于が乱立する事態に陥ります。最後に残った兄の郅支(しつし)単于と弟の呼韓邪(こかんや)単于の争いで呼韓邪は敗れます。これで匈奴は東西に分裂してしまいました。呼韓邪は漢に寝返って援助を求めついに郅支の西匈奴を倒します。呼韓邪は漢との姻戚関係を求め以後両者は融和政策をとります。このとき呼韓邪に嫁がされた公主が有名な王昭君です。
このように匈奴との戦いもなくなった前漢末は古代シルクロード交易の最盛期となりました。
そのような状況で、中国の玄関口である敦煌の重要性はたいへん高まり大いに繁栄をしたことでしょう。人やモノの往来が激増し、それまでの玉門関だけではさばききれなくなったために、新しい関所である陽関が設置されたのもこのころではないかと考えられています。
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