敦煌の歴史 01 序


皆さんは「シルクロード」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?唐の都長安から遙かローマ帝国へと続く壮大な道をラクダの背に絹を積んで進むキャラバン隊の姿でしょうか?

1877年にドイツの地理学者リヒトホーフェンがその著書『支那"China, Ergebnisse eigener Reisen"』の中で、古代の東西交易路を「Seidenstraße ザイテンシュトラーセン(ドイツ語で絹の道)」と命名しました。。



日本の皆さんにとっては NHKの『シルクロード』によってアジアとヨーロッパを東西にむすぶ道がシルクロードであるというイメージが定着しましたので、あたかもかつては中国とローマが世界の中心であったような錯覚にとらわれます。しかしこれらはあくまでも西洋人から見た歴史観です。ヨーロッパが真に世界の中心になるのはモンゴルの世界支配が終わる17世紀、または産業革命が始まる18世紀以後のことです。

「シルクロード」という視点でみると実は当時のローマの存在というものはさほど重要ではありません。むしろ中国と西域諸国の東西関係、中国と北方の遊牧騎馬民族との南北関係こそがシルクロードの歴史と言えます。

しかしここにも問題があります。いま私たちが知る当時の記録のほとんどは歴代の中国王朝によって記されたものだからです。8世紀まで文字をもたなかった遊牧騎馬民族は自分たちの歴史を書き残してはいません。彼らについて書かれたものは中国の王朝が記したもので、多くの場合に彼らは野蛮な悪者として記録されます。

普段私たちが使う「中国史」という言い方も、漢民族の歴史という意味でとらえる方もいるでしょうが、「中国」=「漢民族の国家」というわけでは決してありません。むしろ漢民族が遊牧騎馬民族に支配されていた時代の方が長いくらいです。敦煌の歴史にも多くの遊牧騎馬民族との関わりがあります。従来の東西関係だけではなく南北の関係にも着目していただければより一層シルクロードの歴史が興味深いものになるかもしれません。





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