嘉峪関 Jiayuguan
かよくかん チアユークアン
沙漠の中で威容を誇る、明王朝(14~17世紀)が築いた万里の長城の最西端の関門です。「天下第一雄関」とも称されます(東端は河北省・老龍頭)。
1368年、明の洪武帝はモンゴル族の元朝を駆逐して新たな中華の統一者になりました。しかし元朝の残党はモンゴルへ逃れ(以後は北元と呼ぶ)、勢力を盛り返すとしばしば明の北西辺に侵入します。1372年、北元の東進を阻止するため洪武帝の命により将軍・馮勝がこの地に関所を設けました。しかしこのことで嘉峪関の西にある沙州(敦煌)・瓜州(安西)の実質的な支配力は明朝から離れ、親派のモンゴル族による間接統治となります。
16世紀になると西域のトルファンが勢力を拡大して明の管轄下にあったハミや敦煌を占領します。愚帝が多く強大な軍事力も持たない明朝は、1524年にトルファンに対抗することもなく嘉靖帝の命により嘉峪関を閉ざしてしまいます。敦煌は完全に放棄されトルファンの支配下に入りました。交易ルートのメインがすでに海上に移っていたとはいえ、嘉峪関は(西域の支配権を失った)屈辱のモニュメントという見方もできます。
一般に万里の長城というと北京郊外にある山々を這う龍のような長城や、沙漠の中にそびえるこの嘉峪関などを思い浮かべるでしょう。これらは明代に築かれた長城です。多くの人はその壮大なスケールに圧倒されるのですが、これだけ堅牢な壁を築かなければならない理由は何だったのでしょうか。13世紀頃に中国では火薬が発明されています。明代の戦争では大砲や銃火器が使用されていますので昔のような土の長城では役に立たなくなったからです。決して威容を誇るための建造物ではなく防御のために必要だったということです。
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